必要な手と不必要な手
最近そんな状況に、よく出逢う事があります。
「その手は、本当に必要なの?」
上記写真は、ドイツのIdeen Parkといって、子供たちのため、
将来のドイツのために、企画された体験の場
工業国だったのが、モデルやサッカー選手への人気が高まり
少しでも子供たちに「楽しさ」を伝える企画
程よさが楽しそうでした。
また、あるテレビ番組では、電車に設けられている「優先席」が必要か、どうか?
日本人のおもいやりについて、語られていた番組。楽しかった〜。
「席を譲る」という行為に対して、優先席を設けていますが、
「それって必要なの?」で、答えが二分化されていました。実に面白い。
思いは、それぞれにありました。
優先席を設ける
- 譲るという行為を一般に気づかせるため
- 高齢者、妊婦さん等に座ってもらうため
優先席を設けない
- 「思いやり」は、気づかされるものでない
色々と考えさせられました。自分は、後者かな。希望も込められてるかも、笑
ある会社では、全席優先席としているところもあるとか。凄い。
逆に、座らない人たちも発生してしまい「安全性」が欠けることもあるのでは?
とも感じます。笑
自分自身を含め、周囲に対し、「手を出すべきか/出さぬべきか」
ここ最近は、出さない方がいい 気がしています。
長い目でみた時は、やっぱり地球上で一人になります。
それが二人になるか、三人になるかは、本人次第。
周囲の人間ができることは、大して無い。きっかけや経験値を与える程度
時間は、かかるでしょうが
スイッチが入ったとき、スピードが大分違って来るように感じます。
自己意識に主体性が備われると鬼に金棒。
これほど「変える」というチャレンジが早いことはありません。
不必要な手が、多くなってきた社会
心に問い、必要な手とは、何か?
忍耐力と思いやり
- 自分の仕事は、自分で見つける。
- 人の背をみて学ぶ
- 自分の手で感じ取り、気づく意志
やっぱり、言っても聞かない。効果ない。ってことは、
「自分で理解していない/自分自身に置き換えられていない」ってことでしょうか。
何のための言葉で、何のための「必要な手」なのか。
う〜ん、言葉よりも姿勢など目や体が感じ取る
コミュニケーションの方が、伝わりやすいのでは?とも感じますね。
いやいや、社会や世、人のためにとよく聞きますが
「程よい」ぐらいが、丁度良い。そんな気がしてきました。笑
その大切な人が、一人になったとき
いったい何が、その人には必要なのでしょうか。
生きる力
考えさせられる機会に、多々出逢います。
感謝・感謝
本日も素晴らしい一日でありますように!
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